家族とともにお正月の料理を楽しみ、お年玉をあげたりもらったりすることは、多くの人々にとって当たり前の風景です。
しかし、それぞれの行事や習慣には深い意味があるのです。
新年の風物詩としての行事や習慣の由来や起源を知ることは、お正月をさらに深く感じることにつながります 。これらの背景を知り、お正月をもっと豊かに楽しみましょう。
お正月とは?新年の神々を歓迎する習慣の由来と起源
「正月」という言葉は、基本的に1月を指しています 。
しかしながら、多くの人々にとっては1月1日から1月7日まで、一部の地域では1月15日や20日までの期間をいうことが多い のです。
この期間は、「松の内」ともいわれています 。
古代より、元日(1月1日)には「年神様(としがみさま)」として知られる神様が、1年間の繁栄を約束 するために家々を訪れると信じられていました 。
この神様は、家族の健康や収穫の豊かさに関与し、平和や繁栄をもたらすとされ、「正月様」や「歳徳神(としとくじん)」とも称されます。
そんな神様を家に招き、繁栄や幸福を求めるために、多くの行事や習慣 が根付いてきました。
新年を“迎える”と言ったり、「一年の計は元旦にあり」というのは、この神様を元日に招待する伝統に由来しています。
そして、お正月の期間に行われる行事や習慣には、この年神様に関連する一連の伝説や物語が込められている のです。
「お正月を迎えるための行事」の由来や起源
お正月を迎えるには、「これだけはしておきたい 」という、日本人の心に根付いているもの があります。
でも、今となっては生活様式に合わずに実行しにくく、廃れがちなものもあるでしょう。
せめて、由来や起源を知ったうえで、すぐにできて自分のためになるようなことだけでも、やっておきたいものですね。
年賀状を送る
年賀状の始まりは、平安時代に藤原明衡(ふじわら の あきひら)がまとめた文例集に見られる年始の挨拶 とされています。この頃は、「年始回り」の習慣が根付き、遠方の人に手紙をおくる風習も生まれていました。
江戸時代には「飛脚」が登場 したため、手紙での挨拶が増えた とされています。また、「名刺受け」が家々に設置され、不在時に挨拶の手紙を受け取る文化も生まれました。
現代の年賀状は、1873年(明治6年)の官製はがきが始まり で、明治20年頃には年賀状を送ることが新年の恒例行事 となっています。
その後、「1月1日」の消印を求める人々により、郵便局の業務が急増。このため「年賀郵便」制度がスタートし、年末に受け取って元日に届ける形となりました。
さらに、1949年(昭和24年) には、林正治氏の提案でお年玉付きの年賀はがきが導入 されています。
年末に大掃除をする
大掃除とは、新年を迎える年神様を招く前に家の中を一新し、神棚や仏壇、住居全体を浄化すること です。
一年を通じて溜まった埃を取り除き、家中を綺麗にすることで、年神様が様々な恩恵をもたらしてくれる とされます。
この慣習は、かつて12月13日に江戸城で実施されていた「すす払い」の伝統にもとづいたものです。
この日から新年に向けた準備がスタートするため、12月13日は「正月事始め」と称されます 。
門松(かどまつ)を立てる
門松は、年神様を確実に迎え入れるための目印 として、玄関や門の付近に置かれる ものです。起源は、平安時代の宮中儀礼である「小松引き」 と考えられます。
「小松引き」とは、その年の最初の子の日(ねのひ)に外へ出て、長寿祈願として松の木を引き抜いてくる習わしのことです。歴史的に、松は神聖な木としての位置づけ があり、昔は庭に立派な松の木を植える習慣があったのです。
時が経つにつれ、門付近に雌雄一対の松を一組として配する形が定着し、後には吉祥の象徴である竹や梅の装飾も加わる ようになりました。
門松が飾られる期間は、年神様が滞在される時期 と同じで、これを「松の内」 と称します。
この期間(通常、関東は1月7日、関西は1月15日まで)に新年の挨拶や年賀状の交換、また初詣を行う のが一般的な慣習となっています。
しめ縄・しめ飾り
年神様を迎えるための聖なるスペースとして認識される場所には、しめ縄を取り付けたり、しめ飾りを飾ったりします 。
由来として有力な説は、日本神話の「天岩戸(あまのいわと)伝説」 です。
天岩戸から天照大神(あまてらすおおみかみ)が出てきた時、太玉命(ふとだま)が天の岩戸をしめ縄でふさいだとされています。
しめ縄やしめ飾りも、やはり、松の内が終わったあとに片付けられるのが伝統 です。一部の地域では「どんど焼き」という行事でこれらの正月飾りを焼く風習 があります。
鏡餅(かがみもち)を飾る
鏡餅は、年神様に対する奉納品 であり、神の依り代 です。この習慣は、新年に硬い餅を噛む「歯固め」という伝統から生まれたとされています。
鏡餅の由来は、かつての丸い「銅鏡」に関連している とのことです。「銅鏡」は三種の神器の一つで、神様が宿るとの信仰があり、神々しいものとして尊ばれていました。
そうした背景から、年神様を迎える代わりとして、鏡の形状をした丸い餅が作られ、「鏡餅」と称されるようになった とされています。
つまり、「鏡餅」は、神事で使われる丸い銅鏡を連想させるもので、丸い形は魂の象徴とされているのです。
ちなみに、鏡餅の2つの層は、太陽と月や陰陽を示し 、「円満に年を重ねる」という意味 がこめられています。
「大晦日(おおみそか)から元日にかけての習慣」の由来や起源とは
大晦日やお正月には、「ぜひこれだけはやってみたい! 」ということがいくつかあります。
しかも、由来や起源を知って実行すれば新年を迎える気持ちがより実感 でき、新たな年を頑張る気持ちが湧いてくる でしょう。
年越しそばを食べる
「年越しそば」は、健康で長生きを願っての伝統 です。
かつて江戸の人々が忙しい日常の中で短時間で食べられる蕎麦を選び、「晦日そば(みそかそば)」として食したことからこの習慣が続いています。
さまざまな地域で、健康を意味する「寿命そば」、良い運を願う「運気そば」、繁栄を意味する「福そば」、トラブルからの遠ざかりを願う「縁切りそば」といった愛称で呼ばれる ようになりました。
そして、蕎麦に添えるネギには、頑張った一年を労う(ねぎらう)「労ぐ(ねぐ)」 、新年への祈りを込めて「祈ぐ(ねぐ)」 、そして神職が行う祓いや清めの儀式を示す「祢宜(ねぎ)」 の言葉を掛けて、新年の祝福と感謝の気持ちが込められています 。
除夜の鐘をきく
大晦日は、年神様を夜通し迎える特別な日 として伝えられています。
この特別な日、人々の心の中の迷いや欲望を払うために、多くの神社では深夜に除夜の鐘を鳴らし、108の煩悩を清める のです。
ちなみに、この108の数は、「十二ヶ月、二十四節気、七十二候」を合計したものとも伝えられています。
また、神社では、人々の罪や汚れを取り除く「大祓(おおはらえ)」や「新年の浄化」の儀式 を執り行います。
初夢をみる
初夢は、年の初めの運命を示すもの として古くから重視されています。
その夢の中身によって、その年の幸運を占う ことが一般的でした。
宝船や獏(ばく)のイラストを枕元に置く、または特定の言葉を繰り返すことで、よい夢をみることができる と伝えられています。
初日の出を拝む(おがむ)
初日の出は新年の始まりを告げる象徴 として知られています。特に、山の頂上での日の出は「御来光」 と称されます。
また、日の出とともに年神様が訪れるとの言い伝えがあるため、毎年多くの人が、年の始まりとして日の出を拝む のです。
初日の出の由来には、複数の説が存在します。
その中でも、平安時代初期からあった四方拝(しほうはい)という元旦の祭り に起源があるとされるのが有力です。それが次第に一般の人々にも伝わり、新年を祝う風習が生まれたとされています。
明治時代に入ると、初日の出と共に年神様が訪れるという信仰 が広まり、多くの人々が健康と幸せを祈って初日の出を拝んだ そうです。
歳神様は新年に家々に豊かさや幸福をもたらすと言われています。
若水(わかみず)と若水迎え
若水とは、新年の初めにくむ特別な水のこと です。
この水は、年神様への奉納や雑煮作りに使うのがよい とされています。若水を摂取することで、1年間の悪い気を払うことができると伝えられているの です。
若水迎えとは、若水を井戸や川、泉などから汲むことをいい、起源は平安時代 にあるとされています。
平安時代の宮中では、伝統として立春の日に主水司(もいとりのつかさ)から天皇に若水が捧げられていたようです。
若水を献上する際には、陰陽道の教えに基づき、天皇がその年における生気(しょうげ)の位置に存在する井戸から採取されました。
この生気とは、十二支の「子、丑、寅、卯…」を年間の月ごとに配置し、さらにそれを八卦の位置に関連付けた結果である特定の吉方(幸せをもたらす方向)を意味します。
この特定の生気の位置を持つ井戸は、事前に密封され、立春の日の早朝にその封を開け、若水が採取されるようになっていました。
そして、取り出された若水は、台盤所(だいばんどころ)に居る女官が、天皇の朝の食事(朝餉:あさがれい)として捧げられていたのです。
なお、若水を迎える習慣が正月の早朝に行われるように変わったのは、室町時代から江戸時代の間 だと伝えられています。
お年玉をおくる
お年玉は、元々は餅 が贈られていました。というのも、この餅は普通のものとは異なり、年の初めに「年神様」からいただく、生命エネルギーや活力である「魂」を象徴していた からです。
お年玉は、江戸時代には一般の人々の間で普及していた と言われています。
その頃は、お餅だけではなく、様々な物品や現金が渡される こともあったようです。そして、この新年のプレゼントを「お年玉」と呼ぶようになりました 。
明治から昭和にかけても、この習慣は続いています。
特に、昭和30年代の終わりの経済発展の時期に、都市エリアを中心に現金を贈るように なり、受け取るのは子供に限定されるようになった とされています。
「お正月恒例の料理」の由来や起源とは
お正月に食べるものには、昔からの伝統的な料理や食べ物 がいくつかあり、それぞれに由来があります。
その由来や起源を知りながら食べる と、また違った美味しさが味わえるかも知れません 。
おせち
「おせち」とは季節の節目の祝福のための料理 を指しています。
元々は、重要な時期(=節日)に感謝の意を込めて、神様へ捧げる料理(=節供料理)からきており、「御節供(おせちく)」の言葉が短縮されたもの です。
この料理を通じて、神への感謝を共に分かち合い、一緒にお祝いすることでその神からの恵みを受け取るという背景があります。
おせちの起源は、平安時代の宮廷の風習 にあるとされています。元日や五節供(五節句とも)といった特別な日に特定の料理をふるまう慣習 が取り入れられていました。
最初は貴族や宮中の独特の行事であったものが、江戸時代を迎えると庶民の間にも浸透 していきます。その結果、正月を祝う主要な料理として、「おせち」が位置づけられる ようになったのです。
おとそ
おとそは、新年の初めに飲む伝統的なお酒 です。漢方の成分が含まれる特別な薬酒 であり、家族の健康や繁栄を祈願する意味合いが隠されています。
なお、よく神前に供えられる御神酒(おみき)と混同されることがあります。
おとその起源は、悪霊を追い払い長寿を望む中国の習慣 からきています。その習慣とは、大晦日に井戸に吊るした漢方薬を新年に取り出して酒に浸け、家族で順に飲むという習わし のことです。
そして、この薬酒のことを「御屠蘇(おとそ)」と記述 しました。これには、邪悪な気を取り除き、元気な精神を呼び戻すという意味が込められています。
この風習は、日本で平安時代の宮中の儀式として採用 され、やがて江戸時代には一般の人々の間にも普及 していくのです。
お雑煮(ぞうに)
お雑煮は、年神様への供え物として神棚に上げた餅をいただく際の料理 として考えられています。そのため、元日に初めて汲む「若水」で調理することが、お雑煮の伝統的な作法 とされているのです。
お雑煮は、もともと正月限定の料理ではありません。室町時代に武士の間での格式ある宴の際に、本膳料理の前に提供される前菜として食された煮物 でした。
この料理は体の内部を守り、健康を維持する役割から「保臓(ほうぞう)」とも称され、「宝雑」や「烹雑」として表記されることも ありました。
江戸時代に入ると、お餅を加え、さまざまな具材を混ぜ合わせた「雑煮」として広まり 、それぞれの地域や家庭に独特の特色を持つように進化する こととなったのです。
七草粥(ななくさがゆ)
七草粥は、1月7日の「人日」に食べられる正月の伝統的な行事で、五節句の一つ です。人日とは、「人の日」を意味します。
中国の前漢時代から、元日から7日目までの各日に、異なる生き物の占いを行い、7日目を人の日として特別視していました。
この日には、「七種菜羹(ななしゅさいのかん/しちしゅのさいこう)」という7種類の若菜を入れた汁物を食べ、無病息災や立身出世を願う風習があったのです。
この習慣が奈良時代に日本にもたらされ、7種類の穀物を使ったお粥や若菜を食べる「若草摘み」の風習と結びつき ます。そして、徐々に「七草粥」として知られるように なりました。
江戸時代には「人日の節句」として広まり、多くの人々に親しまれるようになっていきます。
「お正月中の行事」の由来や起源とは
お正月の行事は、はるか昔から行われてきた伝統のあるもの です。その行事の意味を知ることで、新しい年を迎えたことを祝いましょう。
初詣(はつもうで)
「初詣」は、明治時代の鉄道会社 が客を増やすためのキャンペーンとして始まった とされます。
もともと、正月は、家族で年神様や先祖をお祀りする時期とされていました。
そのため、江戸時代から毎月1日は「朔日参り(ついたちまいり)」として氏神様への参拝 は行われていましたが、大勢が集まる現代の初詣とは異なっていました。
また、「初詣」は、元々は住んでいる地域の氏神様に挨拶をするのが目的 です。しかし、時代とともに「恵方参り(えほうまいり)」や人気のある社寺への参拝が増えてきています。
書き初め(かきぞめ)
「書き初め」は、「吉書(きっしょ)」 ともいい、年神様のいる方向(恵方)に向かって祝賀や詩歌を書く のが通例です。
正月の2日目は 、昔から仕事始めの日として、農家は畑や山の神への儀式を行い、商家は新しい商品を売り出す習慣がありました。
この日に、新年の目標や願いを表す「書き初め」をする習慣 も生まれています。
書き初めは、平安時代に宮中の文人が元旦の「若水」で墨をつけて詩歌を書く行事 として始まったとされます。
その後、江戸時代には寺子屋の広まりと共に、庶民の間での人気 が増しました。
そして、明治時代に学校での書道の教育 が始まると、より多くの人が書き初めを実践 するようになったとされています。
鏡開き(かがみびらき)
「鏡開き」は、年神様の力を受け継ぐとともに、新年の節目として鏡餅を食べる行事 です。もともとは1月20日でしたが、徳川家光の命日と同じ日だったために1月11日に変わりました 。
「鏡開き」の名前の起源は、戦に出る武士が気を引き締めるために清酒の樽を割ったことに由来 するといわれます。樽の蓋の形が「鏡」に似ていたため、この行事を「鏡開き」と称したのです。
また、「鏡餅」もその名前の通り、鏡のような形をしており、新年の健康や福を願って食されます。
古来、「鏡」は魂が宿るとされ、大切にされていました。そのため、「割る」という言葉よりも「開く」という表現が使われています。
小正月(こしょうがつ)
日本では、昔は「月」を暦の基準 にしていました。そして、一年で初めて迎える満月の日を「正月」としていた のです。
その後、元日が正月として定着すると、1月1日を「大正月」、1月15日を「小正月」と称する ようになります。また、この日には、かつて成人としての儀式も行われていました。
1月15日には、無病息災 を願って小豆粥(あずきがゆ)を食べ、柳の枝に紅白の餅をつけた「餅花(もちばな)」を飾って収穫の豊かさ を願います。
大正月は年神様を歓迎する祭りであるのに対して、小正月は豊作を願う家庭的な行事が中心です。
特に、正月の忙しさから解放される女性たちのための日として、「女正月(おんなしょうがつ/めしょうがつ)」とも言われています 。
左義長(さぎちょう)・どんど焼き
「左義長」は、小正月を中心とした火を使った祭り行事 を指します。1月14日の夜や1月15日の朝に行われる ことが主流ですが、場所によっては1月7日に開催 されることもあります。
この行事の起源は、平安時代の宮中行事「三毬杖(さぎちょう)」 にあるとされます。
その際は、正月の遊び用の「毬杖(ぎっちょう)」3本を設置し、正月の装飾やお札を焚き上げていました。この宮中の伝統が民間に伝わり、後に「左義長」として普及したというのが有力です。
さまざまな地域で「左義長」には異なる名前がつけられています 。
「どんど焼き」はその代表的な名称の一つです。名前の由来は、どんどん燃える火の音や、燃やす時の掛け声に由来するといわれています。
東北では「どんと焼き」、関西では「とんど焼き」 と、呼び方に変化がみられるのが面白いところです。
ほかの呼び方としては、関東や甲信越で「道祖神祭(どうそじんさい)」 と呼ばれることが多く、九州では「鬼火たき」、または「さいと焼き」「どんどん焼き」「どんど祭り」 といった呼称が存在します。
「左義長」で燃やされるものは、おもにお正月の飾りやしめ縄、熊手 などです。また、過去のお守りや古いお札、お礼の袋 なども持ち寄られることがあります。
ただし、何を燃やせるかは場所により異なるので、事前に確認 しておきましょう。
おわりに
古代より続くお正月の行事や習慣は、「年神様」の訪問を中心としたおもてなしの精神に基づいています。
年神様は繁栄や幸福をもたらすとされ、新年を迎える際のさまざまな行事や習慣に深く関わっているのです。
時代が変わっても、これらの伝統は私たちの生活に根付き、先祖からの教えや価値を次の世代へとつなぐ役割を果たしています。
新しい年を迎えるたびに、この古き良き伝統を心に留め、その意義を再認識することは、とても意義のあることでしょう。